転機は予想もしないタイミングで訪れる

ZARD坂井泉水さんの話

女性のシルエット

君、私、誰だか知ってる?

男性のシルエット

え・・いや、わかりません。

女性のシルエット

私が、坂井。

レコーディングスタジオが入っていた六本木の古いビル。その狭いエレベーターで二人っきりの空間、そして短い会話。
それが当時23歳で実績ゼロの新人クリエーターであった水谷青年と、ZARD坂井泉水さんのあまりに唐突なファーストコンタクトでした。

私にとっては、今でも鮮明に覚えているあの場面。あれから20年以上経ち、彼方の思い出くらいはお話してもよいかと思い、この話を初めて公開します。

坂井さんが救ってくれなかったら、たぶん私は一年持たず音楽業界をドロップアウトしていたに違いなく。

人に歴史あり。ミュージックバンカーの代表が如何にして在るか。
時が経てば経つほど、ZARD坂井泉水という存在、ひいては私を育ててくれたBEINGという組織に感謝の思いを募らせている、一人の業界人の話です。

本記事を読むべき人
  • ZARDやBEINGが好きな人
  • 音楽業界で道を作りたい人

ゴリゴリのHIPHOP DJが入社したJ-POPのレコード会社

若かりし社長

時は大学生時代、DJ ME-YA(ミーヤ)なんていう名前でクラブDJとして活動していた私。ジャンルはHIPHOP。「J」とか「POP」とか大嫌いだった、尖った音楽観を持っていました。

そんな私が新卒入社したのが、BEING GROUPでした。J-POPのど真ん中。むしろロックサウンドのイメージ。
「ブラックミュージックで日本の音楽シーンを変えたい」なんていう青臭い私の思いと、「時代に応じて変革していきたい」BEINGのビジョンが、たまたま折り合った縁でした。

「これまでの我が社にないサウンドを作ってほしい」なんて言われて、素直に嬉しかったことを覚えています。
本当は、それまで音楽など作ったこと一度も無いのに、「はい、お任せください」と返答して入社しました(笑)

先輩たちから奇人変人のように見られた1年目

配属先はスタジオ部門。かといって、みんなと同じように録音技師を目指している感じでもなく、私は先輩たちから明らかに「異物」として見られていました。

髪はスパイラルヘッド、 上唇の上にセットされた髭、 ダボダボの服。

「お前誰?」「あ?DJ?ここで何やるの?」「HIPHOP?なにそれ」、なんてよく言われましたね。
「おはようございます!」と元気よく挨拶しても無視されること、しばしばあり。

「新入社員なのか、アーティストなのか、誰も水谷を定義できず、どう接してよいやら困惑した状況」だったそうです。実際、私自身、どのようなスタンスで何をすべきなのか、最初は解っていませんでした。

後に私は、「リミキサー」「トラックメーカー」「サウンドクリエーター」という呼称(=ポジション)をBEING内で周知させることになるのですが、それは自分の立場を説明するため必要に迫られた背景があったのです。
あの当時も「社内アレンジャー」というポジションはありましたが、それとも微妙に違う私の存在は「得体の知れない何か」としてみなされていたのですね。

勝てば官軍、実績を証明した者が正義

「手のひら返し」って経験したことありますか?
昨日まで自分を見下していたはずなのに、翌日には笑顔でへりくだってくる周囲。
そして、その逆もまた然り。

その人物に対する大方の評価が、ある日降りてきた「天の声」(自分より圧倒的に立場が上の人)によって良くも悪くも真逆に覆されたとき、ほとんどの人は「秒速」で手のひら返しをします。
それは自己防衛であり、サラリーマンとしては賢い証拠。一方、人が人に対する評価など、それ自体が脆く、無意味であることを証明しています。

私もレコード会社時代には、翌日に景色が変わっている状況を何度も経験してきました(もちろん「どっち方向」にも)。
それ自体に良し悪しがあるとは思っていませんが、少なくとも業界では頻繁に生じること。
音楽のような作品やパフォーマンスを取り扱う世界は、ことさら人が人を評価し、世間が価値を決めるからです。

後に私は、倉木麻衣や愛内里菜など、ヒットアーティストたちの作品やステージに多く関わるようになりますが、そこに至るまでは何度も下馬評を覆し、躓きながらも進撃していった歴史があります。

ZARD 30作目のシングル

初めての「手のひら返し」を経験したのは、BEINGに入ってから半年後。
生まれて初めて、私の創ったサウンドが世の中に出ることが決まった時。周囲の空気がガラッと変わった瞬間を感じました。

その作品が、ZARD 30作目のシングルに収録された「痛いくらい君があふれているよ FAST ALVA and ME-YA Re-Mix」
坂井さんが初めてラップを初披露した意欲作(?)あまりに前衛的すぎて、ZARDのシングルの中では知らない人も多いでしょう。
とにかく、そのシングルにカップリングされたREMIX作品を私が担当し、起用されたわけです。

ちなみに

当該案件の対抗馬(競争相手)は、ケツメイシのプロデューサーのYANAGIMAN(ヤナギマン)さんでした。当時でも名のあったクリエーターを破り、「実績ゼロのHIPHOP野郎」の音源がZARDのシングルに入ったものだから、天地がひっくり返る事件だったに違いありません。

音楽業界、夢がありますね(笑)

その年、グループ会社であるGIZAレーベルのアーティストが続々デビュー。2000年代に入り、私の元にも次々と音源制作オファーがくるように。
「BEING唯一のHIPHOP系トラックメーカー」として着々と地位を固めていきました。

坂井さんがいなければ今、私はいない

ZARD30thシングルと31thシングル

さて、あの時、なぜスーパークリエーターYANAGIMANさんのREMIXではなく、生まれて初めて創ったような私の拙い作品が起用されたのか…
当時も今も謎です。

とにかく「坂井さんが選んだ」、そう聞かされました。
正直なところ、嬉しさよりも不思議さの方が強かったのですが、いずれにせよ私は、そのおかげで「藁を掴めた」のは間違いありません。

当時23歳。私の物語はそこからスタートし、はや20年以上経った今。
役割やポジション、スタンスは目まぐるしく変わりましたが、相変わらずこの業界にいます。

エレベーターの中で起こったこと

私の運命を変えたZARD 30作目シングルのREMIX。その起用が決まった、ほんのチョット前の話。
それが、このコラム冒頭で触れた出来事です。

当時、BEINGのスタジオは六本木中に点在していましたが、私が主に出入りしていたスタジオは最も古い施設でした。年季が入ったビルの各階に、いくつかのレコーディングスタジオがあるイメージ。1980年代を賑わせたヒット作品のほとんどが、そこから生まれた伝説のスタジオBARDMAN

ある日、私が1階からエレベーターに乗り込んでドアを閉める直前、ササっと入ってきた女性が。
ドアが閉まり、3秒後、唐突に声をかけられました。

登場人物A

君、私、誰だか知ってる?

まあ、こんなビルだし、関係者だとは思ったのですが、本当に誰だか判らなかったので、「え・・・いや、わかりません。」と答えました。

すると女性は言いました。

登場人物A

私が、坂井

私は面食らい、そして、思わず反射的に、(今でも後悔している)失礼な返答をしてしまいます。

登場人物B

えっ、○○(当時まだデビュー前の新人バンド)のボーカルの方かな、と思いました

瞬時に空気が凍り付き、もう一度。

登場人物A

私、坂井泉水

その瞬間エレベーターのドアが開き、その女性は、すっと降りていきました・・・

私が入った1999年当時、B’z、ZARD、TUBEといったトップアーティストたちは、その旧スタジオではなく、最新式のスタジオ拠点「BIRDMAN WEST」にてレコーディングをするのが常でした。

だから坂井泉水が、しかも独りで、旧スタジオの方に来るなんて夢にも思っていなかった。
あの日、いったい何の用があったのでしょうね。
また、なぜ、たまたま乗り合わせた若者に、突然声をかけられたのでしょうか?

もう一つ。
「私、誰だか知ってる?」って本人に言われても、なぜ私は判らなかったか?
なぜなら、ZARDの写真、横顔しか見たことなかったから(笑)

ZARD 31作目のシングル

実は私、BIRDMANの方にばかり出入りはしていたのですが、在籍自体はBIRDMAN WESTの方でした。
そのため、ZARDのレコーディング時に、同じ施設内にいることはありました。ただ本人とは、最小限のスタッフ以外なるべく会わないように配慮されていたので、当時の私ごときがお目通りすることは基本的には無かったわけです。

しかし、絶対に、というわけではない。
あのエレベーターの日以来、施設内の通路で鉢合わせることが何度かありました。
その度に、坂井さんは「あ!DJ君だ~」と声をかけてくれるようになりました。想像していた印象とは正反対の、気さくな方だった、と覚えています。

いつも私は、ただ、はにかむことしかできず・・・今思えば「採用、ありがとうございます!」の一言でも感謝を伝えるべきでした。

たぶん坂井さんは、周囲にいないタイプの風変わりな新人君に対し、少なくともわずかな興味は持ってくれていたのだと思います。

なぜって?
前述した私の初の収録作品「ZARD 30thシングル」に続き、次の31枚目シングル「この涙 星になれ」にも、私のREMIX作品が収録されたからです。

その頃には、グループ内における私のポジションは着実に前に進んでいる、当時もリアルにそう実感していました。

普通とは違う人をオモシロイと感じる社風

それから数年たって、坂井さんは急逝されます。
その時期、私もいろいろZARDという存在に思いをはせていたわけですが、ふと疑問がわいてきました。

「あの時、坂井さんはなぜ、水谷のことをDJ君と呼んだんだろう?」

よく考えたら、私は坂井さんに自己紹介をしたことなど一度もなかったのです。

不思議じゃありませんか?
取り巻きスタッフではなかったので、私のことは知った顔でもなかったはずだし。

推察の域を超えませんが、坂井さんと直接話せる幹部の誰かが、「最近オモシロイのがいるんだよね」と、私のことを話してくれていたのだと思います。
当時の私はまだグループ全体に顔が売れていたわけではなく、閉鎖的なスタジオセクションの一員。たぶんその人は、私を雇ってくれた当時のボスか、彼に近い別のボス。

とにかく私を面白がってくれた幹部の人は、坂井さんに「DJ ME-YA」をPRしてくれ、その坂井さんは気に留めてくれた。
過分な思いですが、そういう人たちの心ひとつで私は生かされてきたのだと、今は素直に感じ入るのです。

入社当時、先輩社員たちからは「異物」として邪険にされていたゴリゴリのHIPHOP青年。
でも実績をつけていくごとに、居心地は悪くなくなっていきました。

BEINGへの感謝

ZARD坂井泉水とBEINGに感謝を伝える

BEINGにいた11年間

メジャーアーティストたちのサウンドをつくり 自分のTV番組を持たせてもらい 自分のレーベルを創設し ディレクターやA&Rも経験し 演者(DJ)としてライブツアーで全国を飛び回り

さすがにあれだけ前例のない立ち振る舞いをさせてもらったのは、組織の中で後にも先にも水谷だけかもしれません。
逆風も強かったが、一方でいつもどこかで追い風もあって、私にとっては「挑戦させてもらえる会社」だったと思っています。

坂井さんだけでなく、少なくとも当時のBEINGを構成していた「幹部」や「所属アーティスト」ら中核たる彼らは、どこか普通とは違う人を「素直に面白がる」人たちばかりだった。

面白くなきゃ意味ないじゃん

皆さん、根っこからそんな気持ちで音楽に関わっていたのではないでしょうか。
私にとって、あの当時の、あの人たちこそがBEING

2010年にミュージックバンカーを創立するまで、私はBEINGでしか働いたことはありません。今となっては昔の話ではありますが、仕事に関するすべての価値観は、良くも悪くもあの場所で培われてきました。

そんな私は今日もエンタテインメントに囲まれて生きています。
毎日いつも原点を意識しつつ、チャンスを与えてくれた感謝を言葉で反芻しつつ。

今回のまとめ
  • 人に歴史あり
  • 転機は突然訪れるが、そこには自分を生かしてくれた人が必ず存在する
  • 変わり者の方が面白がられる
  • 今の自分があるのは、ZARD坂井泉水、ひいてはBEINGのおかげ

人生は常に分岐しており、その選択一つで、運命が大きく変わります。

あの時
  • ZARDのシングルにREMIX作品が起用されていたなかったら?
  • ゴリゴリのHIPHOP DJゆえに、上から面白がれる存在ではなかったら?
  • BEINGの入社面接で、スタジオのボスが拾ってくれていなかったら?

そういったポイントの一つでも欠けていたら、私は今と違った人生を歩んでいました。

もっと遡れば、学生時代にクラブDJをやっていたこと、大学1年生の時ダブったこと、高校時代に原宿のクレープ屋さんでバイトしていたこと、中学時代に「LL COOL J」のCDを友達から借りたこと、ダンス甲子園に出たくて親にバレないように密かにダンスの練習をしていたことなど、客観的には因果があるとは思えないすべての事象が、一本の線でつながって今に至るのだと気付きます。

人生の過程の中で出会い、図らずも私を生かしてくれた、すべての人たちに感謝を。